Center for the Studies of Higher Education, Nagoya University

 

Vicious Circle of Poverty

−Desert from Poverty and Hope for the Future−

 

新帯哲也
池田元樹
坂口純平

  貧困が引き起こす問題として、難民、政治的混乱、戦争、など様々なものが考えられる。それらのことは、貧しいとされている地域に、それらの問題が多数発生していることから明らかである。ならば、それら様々な問題を解決するには、貧困という問題を解決すればよいのではないか? という疑問が生まれる。これが、このテーマを選んだ最初の理由である。その疑問に答えるため、以下では「貧困」の本質を明らかにし、その解決策、そして、貧困から脱出した時、その国が未来へもつべき展望についても考えていきたい。

 しかし、先進国と呼ばれる我々がなぜ貧困について考えなければならないのか?という疑問も存在する。まずは、この疑問を解決していく必要がある。そのために、いったい、いつ?どこで?なぜ?貧困となったのかという貧困の国に関する5W1Hを明らかにしていく。この問いの答えは、植民地時代、産業革命、奴隷貿易のことをイメージすればわかる。その恩恵を受けた国が現在の先進国と呼ばれる国であり、その被害を受けた国が現在の貧困の国と呼ばれているのである。確かに、それ以前にも文明の違いによる格差があったかもしれないが、現代の貧困を生みだしたのは植民地時代からであるとすることができ、地域もアフリカ、南アジアとすることができる。つまり、このことが現在の先進国と呼ばれる国が、現在の貧困の国々とつながる大きな理由であり、先進国が貧困の国々について考えなければならない責任がここにある。

 そもそも、貧困とは何か?という疑問も残っている。さまざまな国際機関でいろいろな定義がなされているが、ここでは世界銀行による定義を紹介する。世界銀行によると、貧困を一人あたり年間所得370ドル以下と定義し、その貧困人口は約11億1600万人(途上国人口の33%)にあたるとしている。また、一人あたり年間所得275ドル以下の場合を極度の貧困とし、その人口は約6億3300万人(途上国人口の18%)にあたるとしている。しかしながら、この定義にもいくつかの欠点が存在する。第一に、所得の面から数量的に接近するだけでは不十分で、幼児死亡率や成人識字率など基本的な経済的、社会的ニーズを満たすのに必要となるものも考慮しなければならない。また、GNP比較そのものについてもいくつかの問題点が存在するといったこともある。しかし、いくつかの問題点が存在するのであるが、世界銀行の定義が他の機関の定義に比べて理解しやすいものとなっているので、ここでは世界銀行による貧困の定義を用いることとする。

 

 日本という経済発展に成功した国に住んでいると、貧困の国に対して、なぜいつまでも貧しいのか? というもどかしさにかられることがある。そこでここからは、経済学的視点から貧困について見ることで、その答えを明らかにしていきたい。そこで、経済学者ヌルクセによって唱えられた「貧困の悪循環」について説明する。ヌルクセは、『「低所得」→「低貯蓄」→「低投資蓄積」→「低労働生産性」→「低所得」』という一つの悪循環を作った。ここで、この理論を理解するためにいくつかの仮定をする。ただし、この仮定はこの理論の理解を助けるために用いられるので必ずしも一般的な経済理論と一致するとは限らない。@景気がよければ国が発展すると仮定する。A企業がたくさん仕事をすると景気がよくなると仮定する。この仮定のもとに、ヌルクセの唱えた「貧困の悪循環」を順に説明していきたい。

 循環の性質上どこから説明しても一周して戻ってくるのであるが、貧困の国にはお金がないという「低所得」から説明していく。低所得の場合、収入の大半を生きるために使わなければならないので、「低貯蓄」とならざるを得ない。低貯蓄の場合、企業は大量の資金を集めることができず、「低資本蓄積」となる。低資本蓄積の場合、一人あたり資本装備率が改善されないため「低労働生産性」とならざるを得ない。低労働生産性の場合、賃金の上昇は期待できず「低所得」となる。また、「低貯蓄」のところは、「低所得」→「低購買力」→「低投資誘因」→「低資本蓄積」と分解して考えることもできる。低所得の場合、ものをたくさん買うことができず「低購買力」となり、低購買力の場合、企業はたとえ仕事をしたとしても利益をだすことが困難であると判断するので「低投資誘因」となり、低投資誘因の結果「低資本蓄積」となるというこの循環で理解することもできる。この循環で分かることは、仮定Aを満たすために必要な投資資金と投資機会がともに.少ないということである。このことはこの悪循環の原動力となっている。また、仮定Aを満たせなければ、当然仮定@も満たせず、そのため、経済発展できないということになるのである。

 しかし、過去の歴史を振り返ってみると、このような貧困の悪循環から脱出し、経済発展に成功したとされる国が存在する。そこで、日本、東アジアの国々の政策を参考としながら、貧困の解決策について考えていきたい。

 まずは、日本についてである。戦後日本がとった産業政策はおおよそ次の4つである。@傾斜生産方式(1945〜50) A生産合理化計画(1950〜60) B官民協調方式(1960〜70) Cビジョン行政(1970〜)である。@では経済発展の基盤を作るために政府主導による直接統制であった。重点産業として指定されたのは、工業化に必要な石炭、鉄鋼などを供給する産業であった。Aでは外国の圧力を意識し、国内の産業を保護しながら育成していった。重点となっていた産業は、鉄鋼、電力、海運などであった。Bの政策がとられたとき、日本のGNPは世界第2位となり、海外から日本の自由化、国際化がせまられていた。政府は、国際競争に耐え抜くには規模の経済が必要であるとし、企業の「合併・提携」が政策手段としてとられていた。Cの時期には、日本の経済はある程度安定しだし、基本的に自由主義となっていく。以上からわかるように、日本の場合、政府主導により国が一丸となって経済発展に貢献していったことがわかる。また、海外の圧力と国内のバランスをうまく政府が調整し、日本の経済を発展させていったことが特徴である。

 つづいて、東アジアについてである。東アジアの成長を象徴するのは輸出加工区の成功である。アジアにおける輸出加工区は、湾岸、電力などのインフラがある程度整備された地域に限定した開発であり、その中でも輸出に便利な場所が選定された。ASEAN諸国の政府は、国際競争力のある多国籍企業を自国の輸出加工区に誘致することにより、産業を活性化させようと考え、次の3つの政策をとった。@資本の100%外資を許可した。A為替レートを減価し、競争力を高めた。B国内の部品使用を義務づけるローカル・コンテンツを低め、外国からの輸入部品の使用を認めた。特にこの3つのうちで@がアジアの国々への外資導入を成功させる決定的な要因となった。また、税制上の優遇策として輸入関税や法人税を減免して外資優遇を図った。一方で全製品の100%あるいは80%を輸出することを義務づけて、輸出の増大に取り組んだ。これにより、輸出力のある企業のみが輸出加工区へ進出することとなった。アメとムチの政策を巧みに操ることで外資を自国に定着させ、それを自国の発展に結び付けていったのである。このような政策により、1965年にアジアで最初の加工区が台湾に設置された。また、1971年にはマレーシアに「自由貿易区」が誕生し、1980年には「経済特区」が生まれて、多数の輸出加工区が東南アジアに設置されることとなった。多数の輸出加工区の中で、特に成功した輸出加工区によって満たされていた前提条件は次の3つである。@政治的安定 Aマクロ経済の安定 B治安のよさ である。Aのマクロ経済の安定とは、物価の安定と国際収支の均衡のことである。つまり、急激なインフレ、デフレ等が起こらず、為替レートが安定していることである。これらの前提条件を満たし、前述の3つの条件を備えた輸出加工区を確保できれば、資本の大きな成長が期待できるので、その結果、雇用が増大し、輸出が伸び、ある程度の技術移転が進み、国全体の成長が見込める。すなわちこの輸出加工区は、短期間で高度経済成長を達成するのに有効と考えられている。しかし、いったん高成長を開始したとしてもすぐに次のボトルネックが発生する可能性が高い。@人的資源の不足 A不十分な裾野産業(部品産業、金型産業など)Bインフラの不足 である。この中でAの裾野産業の育成が輸出加工方式の第2段階において非常に重要な問題となっている。また、輸出加工方式全体の問題として、輸出加工区に指定された地域とそれ以外の地域との所得格差が発生することがある。したがって、輸出加工区の成長が国全体に波及しない場合には所得の不平等が社会問題となる。そのため、アジア各国に外資を導入する第一の受け皿として中央機関政府による輸出加工区が重要な役割を演じた。現在までに、貧困を解決しようとさまざまな試みがなされてきた。しかし、現在の状況を取り巻く環境は不断に変化しているので、過去の成功例がそのまま現在にも有効であるとは限らない。

 しかしながら、外資を輸入し、工場をたくさん建てたとして必ずしも国が経済発展するとは限らない。設備等のハード面が整ったとしても、国民一人一人のやる気といったソフト面についても改善されなければならない。つまり、経済発展するためにはハードとソフトがともに整わなければならないのである。今日までに、貧困を解決しようと様々な政策がとられてきた。しかし、貧困を完全に解決するまでにはいたらなかった理由として、ソフト面の改善が遅れたためということが考えられる。以下では、国の構成主体である国民が陥っている貧困の悪循環を示すことで、ソフト面への対応について考えていきたい。

 その悪循環とは以下の2つが考えられる。現在の悪循環は、「低所得」→「低労働意欲」→「低労働生産性」→「低収入」→「低所得」という循環である。低所得が低労働生産性にむすびつく原因として考えられるのは、人間に最低限必要な欲求であるとされる生理的欲求が満たされないために起こるモチベーションの低下が問題であると考えられる。この生理的欲求とは、餓え、乾き、睡眠、休息、運動などの欲求を満たそうとする生物的・自己維持的欲求のことである。この低次の欲求である生理的欲求が満たされない限り、国を発展させるといった高次の欲求に結びつかないと考えられる。また、生理的欲求を満たすことが非常に困難である場合、そのことは国をいかに発展させるかではなく、1日をどう生きるかということに意識を集中させてしまうのである。そして、将来の悪循環として、「低所得」→「食糧不足」→「低栄養」→「疾病」→「労働力不足」→「低労働生産性」→「低所得」が考えられる。この2つの悪循環に共通の構成要素である「飢餓」の問題について以下見ていくこととする。

 飢餓とは、実に慢性的かつ持続的な問題で、毎日、約2万4000人もの生命が飢餓によって奪われている。この人数のうち、4分の3は5歳以下の幼児と言われている。最近開かれた「世界食糧サミット会議」での報告によると、約8億4000万人(全人類の7分の1)が慢性的飢餓によって苦しまされている。このうちのほとんどの人々が、南アジアとアフリカのサハラ砂漠の南部周辺に住んでいる。つまりは経済発展が遅れている地域である。

 飢餓は決して「食糧不足」が原因ではない。世界全体における食糧生産は地球上に住む人々すべてを養うのに十分すぎるほどの量がある。人々が飢餓に苦しむのは、生活に必要な最低限度の収入を得る機会が奪われているからである。飢餓状態にある人々は、どんなに一生懸命働いても1日に1ドル以上儲けることが出来ないとさえ言われているのが現状であり、そのことが人々に国の発展という長期的な展望を持たせることを困難にしているのである。

 具体的に飢餓のレベルを測る目安として最も適切なのは、乳幼児の死亡率であると言われている。IMR(Infant Mortality Rate)は飢餓の程度を表す指標で、出生児1000人中に1歳未満で死亡する数を示す。一般的に、IMRが50以下になると、その国は飢餓の危機を乗り越えたことになるとされている。1977年と1997年のIMRの比較をしてみると、北アメリカは16から7、ヨーロッパは22から10、ラテンアメリカは78から39、南アジアは125から76、アフリカ・サハラ砂漠南部周辺は160から93となっており、いずれも著しく減少している。20世紀時代は戦争という名の脅威にさらされてきたが、21世紀が近づくにつれ、世界の討議が軍事的や政治的問題ではなくなり、飢餓、人口増加、衛生、環境といったような「人間的な問題」が取り上げられるようになった。IMRが減少した理由の1つとして、こういった人々の姿勢の変化が挙げられる。

 しかしながら、飢餓を完全に無くすためには、人々のより一層の努力が必要とされる。

 そのために掲げられた人類への課題は、以下の7つである。

 これら7つの課題は、どれかひとつでも欠けてしまえばあまり効力を発揮しない。すべての課題をクリアしてこそ、飢餓、そしてこの地球が抱える諸問題の解決へと導かれるのである。かなり難題ではあるかもしれないが、人類一人一人の心がけによって、地球を悩ます貧困問題を解決するのも夢ではない。

 これまでに、様々な悪循環について見てきたが、悪循環の性質上、循環を構成している各要素の“低”のどれかひとつでも“高”にすることができれば、好循環が生まれるのである。例えば、ヌルクセによる悪循環に関しては、「低貯蓄」のところは海外からの資金援助で解決できるかもしれないし、「低資本蓄積」のところは政府の積極的な資金援助で解決できるかもしれない。ならばなぜいつまでも貧困に陥っている国が多数存在するのだろうか。その一つの答えは、この悪循環が貧困の全てを説明しているわけではないということである。この悪循環の構成要素以外にも貧困を構成している要素は様々あると考えられる。しかし、この悪循環は貧困の全てを説明しているとは限らないのだが、貧困のあるひとつの側面については説明している。つまり、貧困の国というのは、貧しいがゆえに貧しいといった悪循環に陥っているのである。そのことによれば、貧困を解決するには、貧困を解決しなければならないのである。言い換えれば、貧困を解決するには貧困ゆえに起こりうるとされた問題を解決しなければならないことを意味しているのである。貧困とは決してひとつの問題ではなく、様々な問題の集合体として存在するのであり、貧困ゆえに多数の問題が発生するというだけでなく、多数の問題が存在するゆえに貧困であるという逆の関係も成り立つのである。すなわち、ここでもひとつの悪循環が存在する。「貧困」とは、いくつかの悪循環を持つことで、常に「貧困」でありつづけ、そのため経済発展できない国がいまでも存在するのである。

 最後に、「貧困」について、別の視点からもう一度考えてみたい。そうすることで、貧困を解決するための方向づけをしておきたい。一口に貧困といっても、貧困とみなす視点を変えることで2種類の貧困に分けることができるのである。生きるための最低限の必要を満たせない場合の貧困を「絶対的貧困」とし、先進国と比べて大きな所得格差が存在する場合の貧困を「相対的貧困」とするのである。絶対的貧困は先ほどの世界銀行の定義に従えば極度の貧困にあたる。しかし、相対的貧困については必ずしも先ほどの定義どおりというわけではない。この相対的貧困という言葉は同じ社会にくらす人たちの生活とくらべて貧しさを判断する時に使われるので、先進国にはこの相対的貧困が存在していると言える。また、「貧困」と対義語である「豊かさ」についても2種類存在する。「主観的豊かさ」と「客観的豊かさ」である。主観、客観という言葉で分かるように、「主観的豊かさ」はどう感じたかという恣意的なものであり他人からは判断しづらい。「客観的豊かさ」は統計上の数値で科学的に判断できるものである。今の日本には、「絶対的貧困」はなく、「客観的豊かさ」は充分にあるとされるが、「主観的豊かさ」があるかどうかは疑問である。経済発展の結果が今の日本のことを指すならば、「相対的貧困」であっても「主観的貧困」を持ち合わせている国は、経済発展しようとはしないかもしれない。貧困の国の未来への展望について考える時、実は、現在の日本、つまり先進国の存在について考えなければならないのである。「豊かさ」は「貧困」同様非常に難しい問題である。しかしながら、ひとつだけはっきりしていることがある。「極度の貧困」は解決されなければならない。そこで、貧困を解決するためのひとつの方向づけができる。「絶対的貧困」を解決するために、健康で、有意義な人生を送るチャンスを誰もが平等に得られる程度の「客観的豊かさ」を追求する必要があるということである。それから先のあり方は、いまの日本の「豊かさ」次第かもしれない。

 

参考文献

高木保興『開発経済学』勇斐閣1992
タリーザ・ガーレイク(斎藤聆子訳)『貧困』星の環会2000
アマルティア・セン(黒崎卓・山崎幸治訳)『貧困と飢饉』岩波書店2000


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