コラム:思わず熱くなった私




 授業に失敗はつきものですが、失敗にもいろいろなレベルがあります。失敗しないと身につかないというレベルはさておき、できれば失敗は避けたい、あるいは一度だけは許されるかな(?)というレベルの失敗に、「受講生から出てきた質問や意見に論理的に反応してしまう」ということがあります。
論理的に推論するという力や批判的に考える力は大学教育で大変重視される価値であることは間違いないのですが、そのような能力の形成途上にある学部生の場合に対しては、大学教師のそのような力は鋭利な武器ともなり得るのです。
 自分自身の経験ではいまから3年前にさかのぼりますが、「教育学」の授業のなかで議論の時間を設けて、「小学校におけるいじめをどう解決するのか」のテーマについて学生の意見を出させていました。そこである女子学生が、「学校にいる間は教師は子どもと片時も離れずに居るべきで、そうすればいじめは起こらないはずだ」という意見を熱く述べました。
 意見が出尽くした頃合いを見計らって、このテーマを閉じることにしましたが、職場で議論していたホットなテーマであったので、私自身の解決策を熱く開陳してしまいました。その解決策の論理は裏返せば女子学生の意見への批判に結果としてなったようで、当の女子学生は自分が批判されたと勘違いして顔を直下に俯けてしまいました。しゃべってる途中で何が起きたかに気づいたのですが、もう流れは戻せませんでした。次回は欠席。その後数回は出席しても仲間と目立たぬ私語に興じて講義はシカトされました。
 彼女と仲のいい男子学生が取りなしてくれて、講義の最後のころは彼女の誤解は解けたのですが、何か心にひっかかった状態での講義はやりにくいものでした。心理的に傷つきやすい学生が増えてきている昨今にあっては、教師の側は常に「グッド・クエスチョン」の精神に立って、学生にはまず議論を楽しむ雰囲気を経験させる工夫が必要になるようです。
(高等教育研究センター・池田輝政)