Center for the Studies of Higher Education, Nagoya University


中間レポート


成長の限界の書評
その他の文献の書評



成長の限界:書評


田中理絵

 授業を通して、「成長の限界」を読んで、1970年代に世界に向けて危機を発信していた人々がいたことを知りました.ローマ・クラブによると、人口の増加や資本の増加といった成長は、数十年で限界を向かえるだろうと考えられていました.実際には、2000年になって、それほどまでに危機感は感じられていません.なので、この本の目的でもある、人々に対する呼びかけは成功したといえると思います.
 読んでいる途中で少し気になったことは、この本の中では、「成長」ということがあまりにも強調されていることでした.たしかに当時は世界各国が成長を求めていたとおもいます。しかし、今では成長と一言でいっても、人口の増加がずっと続くことが成長なのか、どうなのかというところは、気になることです.人口増加がずっと続けば、いつか地球がパンクしてしまうことは必然です.現代では人口増加を求めるよりも、人口を、ある一定の状態に保つことが、より重要になってくるのではないか、と思いました.各国の人口や、人口増加率は、やはり国ごとによって差があり、これからもまだまだ人口が増えていきそうな国もあれば、日本のように、出生率の低下によって、高齢化社会、つまり将来に向けて人口減少が予想される国もあるし、政府の政策などで、人口を調節しようと努力している国もあります.いろいろとたくさん問題はあると思いますが、その国ごとに、ベストな人口になるように調節することがこれからは必要になってくるような気がします.
 この「成長の限界」は、人類に、自分たちの成長は永遠には続かないということを気づかせるきっかけとなった本でした.この本によると、1970年代と同じ発展をずっと続けていったとしたら、今では、限界点に達するかもしれないと書かれています.内容は、とても危機感にあふれて悲観的なものでした.しかし、今でも限界に達することはないので、考えすぎだったのではないか?とも思います.30年前に比べて科学がとても発達するなど、世界は悪い方向にばかり進んでいったわけではありません.「成長の限界」の中でもっと良い方向で地球の行く末を考えることも必要だったのではないか、とも思いました.
 全部読み通して、あれだけ細かく書かれた世界モデルでも、きっと足りない部分があって、モデルは1つの目安にしかならない、ということにおどろきました.もっともっと視野を広げていくと、すべてのものが何かしらに関係付けられるような気もしました.世界モデルもそうですが、世界全体のことについて中立的な立場で考えることは、とても大変で、難しいことだと思いました.



奥田美希

 現在、日本も含めた先進国では、非常に恵まれた生活が送れているようにみえる。しかし実際は深刻な天然資源の枯渇化、環境汚染の進行などの多くの問題を抱えている。一方、発展途上国では人口の爆発的増加や、それによる食糧不足など直接生死に関わる問題を抱えている。これらは少なくとも三十年前から騒がれている問題である。ローマ・クラブが1970年代に示した数学的モデルからは、2000年にはもう手遅れであるとさえ読み取れる。それぞれの問題は今も急速に進行している。この本は、先進国と発展途上国を合わせた全世界におけるこれらの問題を「人類の危機」と題してローマ・クラブがまとめたレポートである。ここでは人類として可能な何らかの回避策を探索することが目標とされ、それに従って様々な対策が数学的モデルを利用して示されている。しかしどのモデルにおいても約100年後の状況は現状維持かまたは悪化のいずれかにしか変動していない。つまり、どんなに努力しても良くなることはない限界に達したのである。
そもそもこれらの問題は、人間が自然に手を加えた結果生じたものであるといえる。高度成長を目標にここまで生活を豊かにしてきたが、逆に生じた損害も大きかった。しかし、大自然における人間の大きさは本当にはかないものであって、その人間が生み出したとも言えるこれらの諸問題が、果たして大自然にどんな影響を与えるというのだろうか。人間も自然の一部であるから、たとえどんなに大きな影響があったとしても、それは大自然の動きとか、変化と言うべきであろう。それならば「成長の限界」は、人間が人間という種を守るためのものであり、人間のエゴイズムであると言えるのではないか。
しかし我々は黙って人類の危機を見守るのではなく、人間としてできる限りのことをするべきである。ローマ・クラブはこのレポートを通して、今直面する危機を明確にし、その程度、今後の変化、対策を独自に示すことによって我々にそう警告をしているのだ。実際このレポートは多くの人に愛読され、ローマ・クラブはそれなりの成果を得た。あとは我々がどのように世の中を変えてゆけるかである。人間に「情」がある限り、自分たちだけでなく他の地域の人や後世の人々、他の種類の動物、植物などへの配慮も欠かせないだろう。
けれどもこれから行うべき対策は、長い目で見れば、終わりの時期を延ばすだけのものにすぎない。消極的かもしれないが、これが「無常」「はかない」などの言葉が表す生物の運命であるのかもしれない。



藤井智子

 これまでに人類であったり、この世界であったりが成長しているという感覚を私は知らなかった。今でも人口がふえたというニュースや新しい技術をみて、それを成長ととらえたりはしにくい。それはふつうに「増加」や「進歩」であって、わざわざ「成長」ということばで表現しなくてもよいように思う。私はこの本が世界のあらゆる変化をまとめて「成長」としていることに、なにかポジティブなものを感じる。それは、序論から一貫した憂鬱な結論とその論だった暗さ、ほとんど変化のみられないそれぞれの章の構成によって、読みすすめるにつれて、つまりはどうしようもないのだという無力感と、すべては予想にすぎないという楽観でなげやりになった気もちを思いとどまらせるものだ。「成長の限界」ということばそのものに、印象だけでない強さがあると思う。
 「成長の限界」はおしまいに、これから私たちはどうすればよいのかについてふれているが、それは抽象的であって、成長をやめる、抑えるといった、やっぱりそれしかないのかと少しがっかりするような類のものだ。今まで人類がしてきたことやつくりだしたもの、それに伴うう世界の変化について、私たちを追いつめる望ましくないもののような感さえ生みだす。人間はふえすぎているし、石油はあらゆることにつかわれすぎている。けれどもローマクラブはそれをあえて「成長」という、語感がプラスで、「発展」や「進歩」よりも人に近い、血のかよったことばで表現しており、それは決して人類のやってきたことを否定しない。それを「成長」とすることは人々の営みを許容して、この本があくまで人のために書かれたことをあらわしているのだと思う。人類が今までにしてきた「成長」は悪いことではなかったとしたその上で、それが限界にきてしまったことをこの本は告げている。「成長の限界」がしめす未来の暗鬱さにうちのめされて、この本が「成長」の成果を保ちつづけてゆくために書かれたものだということを私は忘れてしまっていたように思う。「成長」という決して悪くはなかったこれまでに限界がやってきたことはそれだけにショッキングで思うことが深い。「成長の限界」ということばは人類に否定的にみえて、私たちのこれまでを許容しこれからを憂えており、それゆえに警告としての強さをもっていることばだ。世界について、未来についてを私たち一人一人に還元するその強さのために、この本は今も世界でテキストとして読みつがれており、まだなにも知らない私の手もとにあるのである。



大鷹麻紗子

 「成長の限界」は、天然資源の枯渇化、公害による環境汚染の進行、発展途上国における爆発的な人口増加などによる危機に対し、人類として可能な回避の道を探ることを目的に書かれた物である。そして、成長を抑制するためには、世界的な規模で、設備投資と人口の規模を一定に保つこと、つまり、出生率は死亡率に等しく、資本の投資率は、減耗率に等しくすることが望ましいと提案している。つまり、「ゼロ成長」を勧めているのである。
 しかし、このまま資源の消費や成長を全く停止してしまう政策に乗り出すことは、果たして望ましいことなのだろうか。成長を停止することに対し、最も被害を受けるのは、発展途上国である。経済的、工業的に発達していない国の多くは、貧しく、生活水準も低い。このような国々に、資源や成長にリミットをつけると、その国々が経済的に繁栄し、生活水準を上げることが極めて困難になるだろう。
 成長と環境の悪化は、環境のクズネッツ曲線とよばれる関係がある。(p44『地球温暖化と経済成長』)このアイデアは、一人あたりの所得画像化するにつれて、始めのうちは、公害あるいは環境の劣化が進むものの、更に所得が増加すれば、環境が改善するというものである。つまり、この曲線(逆U字型)は、人々が裕福になってはじめて公害のレベルを下げようという余裕が出てくることを示唆している。ここで、必要になってくるのが、日本・欧米などの先進国の協力である。例えば、先進国(工業国)が、今までの経験から得た教訓を生かし、政策について助言することや、発展途上国から原材料を輸入する際、経済的に持続可能な価格(つまり、あまり乱伐せずに生計を立てることができる価格)で買収することなどが挙げられる。こうした、先進国の協力により、クズネッツ曲線の山を低く保ったまま成長を遂げる可能性が開かれるのではないだろうか。
 重要なことは、我々が、本書にも書かれていたように、空間的・時間的に広く考え行動していくことである。つまり、先進国と発展途上国が協力し合いながら、長期的な視野を持って、共通の目標に向かっていけば、限界に達したための地球の破滅は免れることができるのではないだろうか。また、一人一人の問題に対する意識の向上も必要である。この「成長の限界」が我々への警告文であると、深刻に捉え、日々の生活の中で意識しながら行動していきたいと思う。

参考文献
宇沢弘文/国則守生編 『地球温暖化と経済成長―日本の役割を問う―』岩波ブックレットNO.439 1997年。



細野優子

 未来を予測することは難しい。特に今日、人類史上最大の成長を遂げてきたこの時代において、この先私達が生きていく将来を楽観的にばかりみてはいられない。
 この文献はそのような「人々が曖昧でしっかり認識していない現状と、できれば避けて通りたい、考えたくない不安な未来像」をあえて世界中の人々に示し、考えることを求めている。数字的なデータ、仮定や推測などから様々なタイプの世界モデルを作りあげ、私達が住む地球の危機的状態を示しながら警告しているのである。よってこの文献の中は悲観的な未来像が多くなっている。しかしその中で第5章ではかなり理想化された世界が示されている。それは「成長が抑制された均衡状態の世界」である。「均衡状態」の定義を簡単に表せば「人口と資本が本質的に安定している状態」である。この状態が実現されれば、食糧、人口、工業生産、汚染などが一定の数値で安定するというモデルが示されている。
 そして私がここでおもしろく思ったのは、理系的な著者らが地球規模の問題に対して技術的解決は役立たないとしているところであった。資源の枯渇・汚染を減少させるための政策として、工業生産をもっと抑制し、その分の資本は教育、保健施設のようなサービスへ投資するという考えを示しているのである。また食糧の平等な分配のため、資本をより食糧生産へ振り向けることも提案している。このような政策の結果、人口も安定するというのだが、これは「不経済」な政策であり、合理性、効率的、利益などを追求する今の社会が、そのように経済的選好の指向を変えていくのはとても困難なことだと私は感じた。
 しかし実現する価値は大いにある政策であるのは確かだ。現代の「大量生産・大量消費」の構造が資源の枯渇や汚染問題といった悪循環を生じさせているし、不均等な分配構造が南北問題を解決に導けないでいる1つの要因となっているのだから。
 この文献の中にもあるように、「すべての入力と出力のレート−出生・死亡、投資・減耗が最小に保たれる」ことが世界規模の均衡を実現するための必要条件なのだ。
 また著者も指摘するように「資本と人口の定常状態が人類の進歩の定常状態を意味するのではない。大量の資源を要しない、環境の悪化を生じない人類の活動−教育、芸術、音楽、宗教などは無限に成長を続けうる。」ということも技術に限界が見え始めた今、改めて認識することだと思った。
 これまで世界では「緑の革命」、「一人っ子政策」など様々な政策が既に試みられてきた。そしてこれからも人類はこの巨大な問題に挑戦していかなければならない。今や人類は物的には十分満ちたりている。しかし「盲目的に成長すること」ではなく、「すべての人々の生活環境の向上」を目標とし、それを達成しようとする人々の意志は未だ十分に満ち足りてはいない。その決意を鼓舞するためにこの報告がなされたのだと私は思う。



古川暁子

 「われわれは真剣に憂慮しているけれども、絶望しているわけではない」
私は、この言葉はこの『成長の限界』という本の性格をよく表している言葉の一つであると思う。
もっとも、盲目的な成長に対して人間が自主的な限界を定めることをせずに、何も行動に移さないでいれば、遅かれ早かれ来世紀中にはいつか破局を迎えてしまうであろう、という厳然たる事実は動かせないものである。私自身、この本の図35から図42の部分,つまり主にW章の部分を読むと、人口・工業生産・食料・天然資源・汚染それぞれの行き過ぎ(人口爆発・工業生産高の減少・食糧不足・天然資源の枯渇・汚染の増大…)に対して、どんな新しい技術政策が取られたとしても、結局は成長は止まり、破局が訪れてしまうという結論が目の前に突きつけられて、とても恐ろしくなる。それと同時に、完全な産児制限・食料生産性の増大・天然資源の再循環・汚染防止…これらを可能にする新しい技術は果たして開発され得るのだろうか、という不安感も抱いてしまう。さらには、たとえもしそのような新しい技術が開発されたとしても、すでに手遅れとなってしまうのではないだろうか、という絶望感にも似た思いを抱いてしまう。
しかし、この『成長の限界』は、読む者に絶望感を与え、悲観的にさせるだけの本では決してない。むしろ、経済的な理由から未開発なままの農耕地の現状や、天然資源の現存埋蔵量などの正しく、しかし厳しい現実を読む者に認識させ、何らかの行動を起こさせることに重点を置いていると言える。
私たちは「成長の限界」というものを深く考えたことがあっただろうか。少なくとも私は、地球上で起こっている問題を人口問題や環境問題などに、個々に分けて考えていた。そんな私にとって、先に挙げた五つの問題を関連付けて図式化した「世界モデル」は衝撃的だった。しかし、この本は、成長の行き過ぎとその後に訪れる破局を述べて私たちに警告しているだけではなく、それを避けるための道として「世界全体の均衡」を最後に挙げている。「世界的な均衡とは増加と減少のバランスが安定した状態を示すものであって、決して進歩あるいは人間の発展の終わりを意味するものではなく、その可能性は無限である」と書かれている。
「世界全体の均衡」と言葉で言うのは優しい。実際に人口を抑え、汚染を防止するといった成長を抑制する政策を実行するには、経済的理由などの様々な制約があり難しいことである。しかし、「何も行動を起こさない」ということこそが一番の障壁となるのではないだろうか。



寺島友広

 この本は今から約30年前に発行された。その中身には、この本が発行された当時の計算から見て2000年には地球の何々はどのような危機的状況になるということがしばしば書かれている。2000年とは即ち今年であるが、その結果を考えてみると必ずしもというか半ばこの本の予想は的中していないことがわかる。では、30年前に賛否様々な論を巻き起こしたこの本は無意味であったのだろうか。自分はそうは思わない。というのは、人々に危機感を持たせる、地球には限界があると言うことを意識させるのにこの本は大きな意義を持ってきたし、また、これからも持っていると自分は思うからである。初版から30年近くも経ったこの本を読み、それまで漠然としていた「人類の危機」「地球の危機」というのが、より具体的に、より身近に自分は感じられるようになった。
 この本には幾何級数的成長という言葉がよく使われている。この言葉と、この言葉の意味するところを理解するのに最適な例えが書かれている。「あなたが池を持っていて、その中で水蓮を育てていたとする。その水蓮は、毎日二倍の大きさになる。もしその水蓮がとどめられることも無く成長するならば、30日でその池を完全に覆い尽くして、水の中の他の生物を窒息させてしまいそうだ。しかし、長い間、水蓮はほんの小さなものだと思っていたので、それが池の半分を覆うまで、それを刈ることに煩わされまいと心に決めていたとする。いつその日が来るだろうか。答えは勿論、29日目である。あなたは、あなたの池を救うのに一日しか残されていないのだ。」つまり、この水蓮はこの本で扱われている人口問題、工業化、汚染、食料問題、資源の枯渇などどれでもなり得(実際はこれらが様々なフィードバックループ、トレード・オフの関係で密接に絡み合ったりしているのだが)、池は地球、水蓮の判断をするのは水蓮を育てている私たち人間ということであり、例えに則して言うと、私たち人間は地球の危機が明日という時になってそれに気付き、そのときにはもう何の手の打ちようが無くなってしまっているということである。実際、これは今の私たちの危機意識ではもっともなことではないだろうか。
 上記の事柄を技術的楽観主義で否定する人もいる。私たち人類はいままで技術の力で成功を収めてきた所が大だからであろう。また、資源枯渇の面でこの本を否定する人もいる。どの側面からにしろ否定する人の意見はそれなりの理由があるのだろう。しかし、自分はどの分野であれその詳細については否定論者の方々と対抗はできないだろうが、次の点だけでは否定論者の方々を否定したい。地球にはどの点にしろ限界があるのではないか。自分はこの点だけは絶対だと思う。
 この本には、危機的なデータばかり書いてあるが、決して悲観的なことばかりが書いてあるわけではない。この本の導くのは「破滅」ではなく「成長抑制から安定均衡へ」ということである。少し考えれば分かるが、これは技術ばかりに頼ってはできない。技術も必要だが、政治的、社会的、また宗教的な努力があってこそ達成される。また、後者には時間がかかるのも事実である。だからこそ、破滅が目の前に来るずっと前に、限界を認めることが必要なのではないだろうか。
 少し自分の意見に走りすぎてしまったが最後に、この本は、環境問題、食糧危機、人口爆発など何でもいいが、危機的なことに関心を持っている人には大変有意義な本であり、またそのようなことに関心の無い人も一度目を通す価値のある本だと感じる。



日下部絵美

 恥ずかしい事にローマ・クラブという名前さえ知らずに「成長の限界」を手に取ったのだが、全くの無知で臨んだためか、目の前に出されたその詳細なデータの数々と迫りくる人類の危機に改めて圧倒された。今回は、「成長の限界」の中でも最も重要だと思われる「ローマ・クラブの見解」の部分について書評を述べたいと思う。 「ローマ・クラブの見解」のうち最も重要だと思われる課題について要約してみた。
(1) 世界環境の量的限界と行き過ぎた成長による悲劇的結末を認識する事は不可欠である。
(2) 危機を回避するには技術的解決のみに頼る事は出来ない。
(3) 社会を成長という目標から均衡という目標に方向転換すべきである。
(4) 人類の危機を回避するには、全人類の協力を必要とし、結局個人、国家、世界レベルでの価値観や目標の根本的な変更がなされなければならない。

こういった提案は少々マクロ的過ぎるとも思うが、我々が将来具体的な政策を考える上で基礎となるべき提言である。
私はこの「ローマ・クラブの見解」を読んで、少しでも危機を回避するために一番に取り組まなければならない問題は、政治的問題だという所に行き着いた。確かにエネルギー問題、天然資源や食料の枯渇、汚染といった問題はもはや人類の力ではどうする事も出来ない所まで来ている。先にも述べたように、技術では根本的に解決する事は不可能であろう。しかし、世の中には現在の政治体制を変える事によって回避できる問題はたくさんあるのではないか。
例えば、先進国から途上国へ食料を援助しても、独裁的な政治体制のために食糧の流通が中央でストップされ、その国の人々に届かず餓死者が出たり、一部の発展途上国では輸出を奨励し、国力を高めようとするあまり、国民の生活がますます苦しくなっているのが現状である。また、紛争による産業の崩壊や汚染も深刻である。湾岸戦争時、海岸に流出した石油にまみれた鳥たちの光景はいまだに忘れられない。
人類の悲劇的結末を皆に認識させるという点で、「成長の限界」の果たす役割は大きい。あとは我々が将来どのような行動をとるべきかが残された課題だといえる。



池田元樹

 今回、成長の限界を読んで、私達が人口、資源、環境、エネルギーなどあらゆる面で限界に達しようとしていることを知った。その中で特に関心を持ったのはエネルギー問題で、石油の枯渇が迫っている中でこれからエネルギーをどう供給していけばいいのかということでした。何年も前からあと数十年と言われながら、新しい油田が見つかったりして、現在はあと三十年と推定されています。人口の増加、発展途上国などの工業化によって石油の需要はさらに増大し、もし新たな油田などが見つかったとしてもいずれ枯渇してしまいます。それでディスカッションでは石油の代用エネルギーとして何を使うかという議題が出て、太陽光や地熱、風力を利用した安全なエネルギー、原子力を利用したリスクを伴うエネルギーで討論しました。わたしは原子力発電の方が火力発電に代わるエネルギーの供給方法として適していると言いましたが、その理由には、やはり莫大なエネルギーが得られること、原子炉が正常に機能している時は大気汚染も無く、二酸化炭素が出ないので温暖化につながらないことがあげられます。反面、欠点としてはやはり危険性があげられます。チェルノブイリ原発事故や「もんじゅ」の事故など、何か問題が起きた場合には甚大な被害を受けてしまいます。しかし、かといって太陽光発電、地熱発電、風力発電では効率が悪く技術も未発達なので、国家規模のエネルギーをまかなっていくのは到底無理だと思われます。未発達で不確定な要素の多いエネルギー供給の方法を取るよりは、多少危険でも、ある程度技術が確立した原子力発電を安全面にさらに配慮して発展させていく方が良いのではないかと考えました。原子力発電所の地元住民のことも話題に上がりました。現在のところ、金を積んで過疎地域に作っているという意見が出ました。しかし、原子力発電なしでは充分な電気供給はできないと思います。「もんじゅ」の事故の時に明らかになった職務怠慢などを無くし、安全性にもっと配慮して、原子力発電所が信頼され、受け入れられるような状況を作っていくことが必要だと思いました。



新帯哲也

 成長の限界はある意味あっているが、間違っているとも言える。それは、現在2000年、この状況をヤバイとみるかまだOKとみるかは人それぞれだから。この本は、当時の発展を続けてきた経済的、社会的原則にもとづき、世界の資源、人口、食糧、汚染、経済活動の将来予測モデルと、そのシュミレーション結果をまとめたことに意義がある。確かに、技術の可能性を過小評価しすぎるという指摘もあるが、地球は有限であるとし、文明の成長には限界があるということを、史上初めて科学的に検証したものである。これから地球はどうなるのだろうか。地球が危ないってわかってはいるけど、みんなが力を合わせて、地球を守るぞーっていう風にはまだなっていない。その理由はかんたん。みんな地球よりも大事なものをもってるから。地球なんて、おれの重要度ランキングにいれたら、まちがいなく、10位以上にはいらない。そんなことのために、苦労してやれるかって気持ちになる。だから、みんなの重要度ランキングのTOP3になった時くらいじゃないと、世界中の人が一丸になってできないと思う。で、TOP3になってるのは、みんなの生活に悪影響が及んだ時。たいてい、そうゆう時は、手遅れのときが多いんだけど。成長の限界にもあった時間差。でも、興味がないってのは恐ろしい事で、お前等死ぬぞ!って何度言われたって、努力する気にならないんだから。もう慣れっちゃったって感じ。だから、成長の限界が初めて出版された時の衝撃は伝わってこなかった。そんなの知ってるよくらいの。だから、今はちゃっと無理やりにでも規制をつくって、ヤバイッて時に、なんとかはんばれるようにしとくことは最低限やってほしい。政府が。とゆーことで、環境税の導入が急がれる。つまり、従来の直接規制ではもはや環境の変化に応じることが困難になってきているのである。一企業、ある特定の産業グループに制限を加えれば環境公害を防げるという時代は終わり、「家計」も視野にいれた経済的手段である環境税の導入が必要であると考える。日本の国際競争力に与える影響、マクロ経済に与える影響等さまざまな問題が確かに存在する。しかし、従来の環境政策に限界が生じ、環境の悪化が深刻であるいま、環境税の導入を望む。
Everybody's business is nobody's business!!



坂口純平

 人口爆発、環境悪化、経済停滞、軍拡競争等、現代における世界的かつ長期的な問題について、自分はこれまで全くと言うわけではないがそれほど深く興味を抱いていなかった。しかしこの基礎セミナーではじめて「成長の限界」を読んで、我々の暮らしている地球がこのままでは崩壊しかねない状態であることを思い知らされた。だが、このような現状を十分に理解し、その解決策を求めることに積極的に関心を払っているのは、序論にも書かれているように、世界の人口のごく一部の人々にしかすぎないと思う。このこと自体が、世界の抱える問題のひとつといっても過言ではないとさえ考えてしまうほどである。確かに、ほとんどの人はまず、空間的には家族や友人、時間的には今週から来週までといった小範囲での問題に意識を向け、より広い範囲での問題に目を向けるのは、どうしても後回しになってしまう。これには自分も含まれるので、あまりえらそうなことを言えた立場ではないが、やはり、あまりに狭い範囲に視野を限ることは、よくないことかもしれない。実際に、ほとんどの個人的ならびに国家的な目的が、長期的、世界的な傾向によって結局は阻害されるかもしれないという懸念が、今日強まりつつある、そうこの本には記されている。  
「果たしてこうした世界的傾向は、その解決を部分的、短期的関心に優先させなければならないほど実際に脅威的な意味をもっているのであろうか。」「こうした傾向を制御するためには本当に10年以下しか残されていないのであろうか。」「もしもそれを制御しえなかったら、その結果何が起こるのであろうか。」「世界的な問題を解決するために人類はどのような方法を持っているのであろうか。また、その方法のそれぞれを用いた場合の結果とコストはどうであろうか。」このような問題の解決のための研究をするために結成された団体が「ローマ・クラブ」であるが、本来理系的な視点、立場で研究をするはずの彼らが、文系的観点からも現状をとらえている「見解」には、驚かずにはいられなかった。そんなローマ・クラブの見解の中で、自分が特に感銘を受けたのは、この本で言えば8つ目の見解である。「人類がもし新しい針路に向かって踏み出すとすれば、前例のないほどの規模と範囲での一致した国際的な行動と共同の長期計画が必要となるだろう。そのような努力は、文化、経済体制、発展段階を異にする全人類の協力を必要とする。しかし、主要な責任は先進諸国が負わなければならない。・・・」この見解からもわかるように、やはり我々人類にとって必要なことは、国際的な「相互協力」ではないだろうかと感じられる。決して悲観的な考えだけにはとどまらず、新しい未来を創造するための「挑戦」を主張しつづける彼らの姿勢に、胸を打たれずにはいられない。それが、発売から30年近く経った現在でも多くの人に読まれている理由のひとつではないだろうか。今後も世界中の人々に読まれ、議論が交わされる、そんな一冊でありつづけるに違いない。



渡辺光哲

 「成長の限界」を読んでいろいろ考えさせられた。日々に追われる生活をしている中で、自分達が気付かないうちに、世界が少しずつ限界に近づいていっている。しかもその限界は既にもう目前にまで近づいているのかもしれないのだ。そう考えると、その瞬間を迎えた時、世界はどのようになってしまうのだろうかと危惧する気持ちがある。しかし、この著書は書かれた年代が古い事(1972年)もあり、その時代から現代までの間に様々な分野において技術革新が行われてきたことを考慮すると、まだ世界には余力が残されているのかもしれない。しかし、そこで楽観視するのではなく、少しでも限界を伸ばすためにできることを考えていく事が重要なのではないかと思う。
 この著書を読んで面白いと思ったことが、世界的な立場に立って見解していると言っているが、自分にはどちらかというと先進国側の立場から世界を見ているように思えた点である。年代的にも先進国が高度経済成長期を過ぎ、ヨーロッパ等では酸性雨、日本で言えば四大公害が大きな問題とされ、これまでの乱開発の反動が出始めたころである。これに対して、自分たちがリポートした「地球環境報告」は発展途上国側の立場から世界を見ているという感が強かった。
 もう一点面白かったのが、いろいろと問題提起をして、世界は危険な状態であるという事を言っておきながら、これと言った具体的な解決策が述べられていない点である。確かにこういったグローバルな問題は様々な要素が複雑に絡み合っていて、何か一つの問題を解決すればどうこうなるという問題ではなく、それによって他の事象に与える影響にまで深く考えを巡らせねばならない。しかし、この著書が我々に言いたかったことはそこで我々が何を思い、そして何ができるかを考えさせたかったのではないかと思う。人間は考える事が出来る生き物である。人から与えられたことを黙々とこなすだけでなく、より良く行う方法も考える事が出来るはずである。つまり『問題提起は我々がした。これに対する答えはこれを読んだ者自身が試行錯誤して見つけ出していって欲しい』とこの著書は言っているように思うのである。
 世界中でグローバル化が叫ばれている現代において、こういった地球規模の問題を如何にして解決していくかは困難な問題であると共に、我々は地球という一つの大きな船に乗っているのだということを再認識するためのいい機会なのではないかと思った



武田剛

 1970年代に発表されたローマクラブの報告書である「成長の限界」は、発表から30年が過ぎた今読んでも大変興味深く、考えさせられる本だったと思う。実際この30年間で、報告書のモデル通りになったこともあるだろうしそうでないこともあるだろう。しかし、やはり警告としてのこの本の価値は非常に大きかったと思う。
この報告書の大きな結論の一つに、人口、工業化、汚染、食料生産、資源の使用が現在のままの成長率で進むならば、100年以内に限界に達するというのがある。それを防ぐために世界的な均衡状態が必要だと主張されていた。しかし今現在も世界がその均衡状態、人口と資本が本質的に安定した状態にあるとは言えない。私はまだ世界がひたすら成長を続けているように思う。このまま人口及び資本の幾何級数的成長が続くなら、その後に待っているのは破局のみである。人類社会は、成長に自主的な限界を設定することによって自然の限界内で生きようとするのだろうか、あるいは、なんらかの自然の限界につきあたった場合に、技術の飛躍によってさらに成長を続けようとするのだろうか。この問題は非常に難しいものだと思う。
私がこの「成長の限界」の中で関心をもったことに技術的楽観主義がある。それは技術的突破によって、自然の限界を無限に克服しつづけようという考え方である。自分自身、困難な問題であっても技術的な進歩によってなんとかなるのではないか、と安易に考えて問題の本質から目を逸らしていた気がする。例えば、天然資源について考えてみると、石油・石炭といった化石燃料に限りがあったとしても、新しい技術、あるいは発見によってそれに代わる手段が見つかるのではないかと考えていた。しかしそれでは限界に到達しているのだ。重要なのはその本質的な原因を解決することだと考える。だから技術に過度に依存してはならない。
この「成長の限界」が最後に主張しているのは均衡状態における成長である。はたしてそれは可能なのだろうか。私はそのためにはまず先進国と発展途上国の格差を無くすことが重要だと思う。先進国における経済と工業の幾何級数的成長を減速し、おもに発展途上国でおこる人口爆発を抑制しなければならない。先進国の豊富な食料の余剰を発展途上国に回すことができるならば深刻な飢餓を防ぐこともできる。そうしたことが実現したとき世界的な均衡状態を築き上げることが可能になるのではないかと思う。そして一人ひとりが世界的規模の問題に関心を持ち、問題の解決までに残された時間があとわずかであることを意識する必要があると思う。



中村里沙

 「成長の限界」は1972年に書かれた。1972年というともう30年近くも前のことになる。だからなぜこの本をいまさら読むのかが疑問だった。きっと本の中の話は古臭く、現在では解決されたりして笑い話になっているようなものもあるのではないのかと思った。しかし実際読んでみると違った。現在でも変わっていない問題を提示していたのである。  この本はローマクラブの報告書である。ローマクラブとは人類の危機に対して回避の道を探索することを目的としている民間組織である。本の内容を紹介しよう。人口・食糧生産・工業化・汚染・再生不可能な天然資源の消費という五つの諸要素は全て幾何級数的に増加している。そして地球には限りがあるという事実から、このまま成長を続ければ、地球のもつ多くの限界のどれかにつきあたるだろう。そこで、先の五要素の間の因果関係について、重なり合ったフィードバック・ループで表現した世界モデルをつくった。その世界モデルは、世界システムにおける成長の原因を理解するのに非常に重要である。このモデルではシステムの全般的な行動様式のみを問題にしている。そこからわかったのは、人口と工業の成長は次の世紀には確実に停止し減少するということだ。それに対して、技術進歩によって自然の限界を克服できると考える人もいるだろう。しかし、技術により資源や汚染などの問題を解決しても結局成長は止まると述べ期待を裏切る。技術的解決策のみでは人口と工業の成長の期間を延長するのみで、成長の究極的な限界を取り去ることは不可能だった。そこでローマクラブが目標とするのは均衡状態の世界である。そのためには人口と工業の成長を計画的に抑制する政策を用いることだ。その様々な政策は2000年に開始するのでは遅い。均衡社会に導きうるような現実的かつ長期的な目標と、その目標を達成しようとする人間の意志が今まさに求められている。  本を最初に読んだ第一印象は図・グラフが多くあって理系的だということだ。様々なデータが示されていたが理解しにくかった。しかしそういうことは抜きにしても本は私たちに危機感を抱かせるのには成功していると思う。私は技術が何とかしてくれるのではという考えを最後まで完全には捨てられなかった。技術を効果的に使って成長を抑制できるかもしれないし、もしかしたらこの先誰も想像できなかったすごい技術の発明があるかもしれない、と考えてしまう。本ではそれを否定しているのだが。しかし成長ではなく均衡という考えには賛成だ。どのようにしてそうするのかは私たちが考えなければならないのだろう。考えるようにさせたということだけでもこの本の価値はあると思った。





その他の文献の書評


青山直加
多木浩二著 『戦争論』 岩波新書

 戦争の経過を追うだけでなく、戦争そのものの位置づけを考察する。この本はそういう視点で書かれている。この本は20世紀の戦争全般を扱っていたが、授業に沿ってNATOの空爆について述べようと思う。
NATOの空爆の際、「NATOの空爆には合法性はあるのか」と疑問を持った人は多い。民族浄化に対してならば、ジェノサイド条約に合意している国連こそ武力を行使する合法性があるはずだ。確かに緊急な対応が必要であったが、それは答えにならない。ここで著者は厳しい指摘をしている。「ヨーロッパ人は、ヨーロッパという『想像の共同体』にバルカンを落ち着かせるために、その中で起きた危険を取り除かねばいけないという言説を立て、行動したのだ。しかしそうした言説で構成した現代の政治的世界こそ、現実的可能性としての戦争が立ち上がってきた場なのだ。」と。また、グローバル化が進む世界の中で、国家の消滅の危険を冒してでも現状を超える選択したEUにとって、その中で均質な国民国家にこだわり、内戦にまで発展する地域が存在するのは秩序の危機である。ゆえに、EUはバルカンに干渉するのだろう。
そしてまた、この資本主義のシステムがこの戦争を新しい性格のものにした。この戦争は、グローバル化した資本主義のシステムや情報の流れの中にあったのだ。我々はこの戦争で「グローバル化した世界での戦争」という新しい性格の戦争を経験したことになる。この意味を著者は「一方でおびただしい分裂、無数の対立があり、しかも他方では資本や情報の流れは世界化を迫ってくる。」と説明している。この矛盾に満ちた世界に危険が拡散しているのだ。そして、その視点から見れば、戦争は合法性があって始まるとは限らないだろう。現代の戦争は著者の言葉を借りると、誰かと誰かが政治的に対立して始まる戦争を超えた「戦争」、戦争の要因に思える当事者の直接的な事情や認識よりも大きな次元で生じてしまう「戦争」といえる。
私が危機を感じるのは、グローバル化の進む現在において核が存在することだ。冷戦が終結して核兵器は流出し、情報の拡散によっていかなる国も核を保有できるようになってしまった。我々は冷戦時代以上に核の開発や使用に歯止めをかけなければならなくなったのではないか。
この本を読んで、戦争がその原因も戦闘能力も情報量も全てにおいて変化してきた様子を知った。しかし、1人1人の人間が自分の意志とはかけ離れたところで決定された戦争に翻弄されるのは変わらない。平和を目指す努力の一方で、戦闘能力の向上により戦争の危険は増している。その上グローバル化がよりいっそう事態を複雑に、危険にしている。平和を目指す努力もこういった現代の複雑さを考慮しなくては、実を結ばないだろうと痛感した。



村瀬絵里奈
エリザベス・ミューミラー著・高橋光子訳 『100人の息子が欲しい〈インドの女の物語〉』 未来社

 インドの科学技術レベルの高さは世界でも有名である。インド南部に位置するバンガロールはインドのシリコンバレーと呼ばれ世界中の企業から注目を浴びつつあるし、インド人技術者は世界中で重宝がられている。しかしその一方で、この国の識字率は52.0%(ユネスコ'96)で二人に一人は字が読めない。特に女性の識字率は37.7%(同)で三人に二人は読み書きができないのだ。またこの国は一人当たりGNPが380ドルと低所得な国ではあるが多くの発展途上国と同じく貧富の差が激しい。例えばかつてマハラジャと呼ばれていた人々の子孫のなかには相変わらず広大な土地を持ち裕福な暮らしをしている人々もいるのに、もっとも底辺に位置する人々の中には屋台の主人が投げる鶏の皮で一週間暮らす家族もいる。本書ではこのようなあらゆる階層の女性の生い立ち、生活、考え方が一人のアメリカ人女性の視点から描かれている。
この本の筆者エリザベス・ビューミラーはデンマークに生まれ、アメリカ合衆国オハイオ州で育った。ノースウェスタン大学とコロンビア大学大学院のジャーナリズム科を卒業後ワシントン・ポストに入社し記者活動を続けた。1985年にニューヨークタイムスに勤める夫の転勤に伴い、夫婦でニューデリーへとやってきた。はじめは女性問題にあまり関心の無かった筆者だが、インドの様々な女性に出会い彼女たちの抱えている問題に接するうち、インドが抱えている多くの問題―貧困、人口爆発、宗教、国家の統一など−は女性問題という視点からアプローチできることに気付いた。そして彼女はインドの女性を書き出した。
この本には自分の娘を間引いた夫婦やダウリ(女性が結婚する時に相手の家に持参する金品のこと)が少ないため殺されそうになった女性、自分の夫を火葬している炎に飛び込んだ(飛び込まされた?)妻など、ともすればセンセーショナルに扱われがちな話題も扱っている。しかし筆者の態度は冷静だ。インドの女性や社会にやるせなさや苛立ちを感じることは多々あっても、ただ単に西洋フェミニズムを押し付けることはしない。まず理解しようとするのだ。またこの本では、貧しく抑圧された女性についてだけでなく、大学を出ていたり、裕福な家庭出身だったり、経済的に自立できる女性についても書いている。こうした知識のある女性達が悪しき伝統に盲目的に従っているのを筆者は理解できないでいる。しかし筆者自身、我が身を振り返ると程度の差こそあれ、本質的には同じ行動をしていることに気付く。そこで初めて筆者も我々も女性問題の根深さに気付くこととなる。
世界で初めて女性大統領が誕生した国インドで普通の女性はどのように生きているかを知るのもとてもおもしろい。



伊藤勇司
佐和隆光著 『地球温暖化を防ぐ』 岩波新書

 温暖化対策には規制的措置、経済的措置、自主的取り組みの三つがありえる。しかし、自由化・国際化の進む経済社会の中で期待できる対策は、経済的措置だけであると考えられる。市場競争の激化に加え、各種規制の緩和・撤廃もあり、自主的取り組みは困難になる一方である。また、規制的措置は費用がかかるわりには大きな効果が期待できないため、効率的でない。
経済的措置の代表例として炭素税の導入がある。僕は、経済成長と温暖化対策はトレード・オフの関係にあるから温暖化対策は経済成長を抑制するだろう、という考えを、感覚的に持ってしまっていたため、その考え方がおかしいということを読んだ時、新鮮な感覚を覚えた。炭素税の導入がマクロ経済に及ぼす影響にはプラスとマイナスの両面があり、それは必ずゼロに近い値になること、そして長期的に見ると、資本設備の更新などの「調整」が完了して経済成長率が高くなっていくということが、アメリカでもっとも標準的とされる計量経済モデルによって示されているという。
結局、炭素税のどこが問題なのかというと、産業をウィナーとルーザーに分けてしまう点だろう。概して言えば、炭素集約度の高い産業は損をして、炭素集約度の低い産業と省エネルギー、新エネルギー関連の製品を生産する産業は得をすることになる。こういう観点から見れば、OPEC諸国や産炭国オーストラリアが、数値目標の設定に対して消極的ないし批判的なのは当然のことだと実感できた。でも、そういったことを理由に対策を先送りしていてはきりがない。
炭素税に対してネガティブな方向に偏ってしまうのは、炭素税の有効性に対する理解が足りないからだと著者は言う。税収を補助金としてリサイクルすることによる効率の良い削減効果に加えて、国境措置、ルーザーの損失を最小限にする手だてなども配慮されれば、より実現可能性の高い対策の像が見えてくるのではないかと思った。
最後に、コストや有効性といった観点から対策の先送りを主張する考えがあるということを本書の中で知ったが、温暖化がもたらす被害や対策技術の進歩が不確実なものである限り、早期に対策に着手するのが正当であると強く思った。



伊藤弘樹
福家洋介・藤林泰編著 『日本人の暮らしのためだったODA』 コモンズ

  『成長の限界』の「ローマ・クラブの見解」の一つに、「多くのいわゆる発展途上国が、絶対的にも、また経済的な先進国に比して相対的にも向上する場合にのみ、世界の均衡が実現される。その向上は全世界的な戦略によってのみなしとげられる。」という主張がある。この発展途上国の向上を実現するために、非常に重要な政策の一つにODAがある。 ODAとは、Official Development Assistanceの略で、日本語に訳すと政府開発援助のことだ。具体的に言えば、先進国の政府機関から開発途上国になされる経済的な援助で、贈与・借款・賠償・技術協力などの直接的援助のほか、国際開発機関への出資・資金供与がある。金額だけで言えば、日本はODA援助大国だが、援助が適切に行われているか判断する評価のしくみが不十分で、真の意味で途上国のためになっているか不透明な部分も多いと言われている。 本書は、その日本のODAは、本来支えるべき途上国よりも、実はODAとはあまり関係がないと思っている私達の「豊かで、便利で、快適な」暮らしを支えているという事実が、ODAを使ったタイのユーカリ植林、太平洋沿岸諸国に対する水産無償援助、インドネシアのアサハン・プロジェクトと日本のアルミ精錬業界、ODAによるインドネシアの大規模なゴミ回収「近代化」、外国人研修生受入れ事業、ODAによって建設されたフィリピンの輸出加工区と進出企業、食料増産援助、賠償・戦後補償とODA、という8つの様々なテーマによって述べられている。一部具体例を上げると、 日本のODAを使ったタイのユーカリ植林は「緑の国際協力」を装いながら、日本の紙需要を満たす原料供給基地化することが目的で、周囲の生態系への影響を考慮せず生産性や効率のみを追求している。 日本の途上国への水産無償援助は、海外の漁場を安い入漁料で確保するための手段で、供与された施設や設備は有効に活用されていない。 インドネシアでは、インドネシアに住む人々のためではなく、日本人が大量に飲む缶ジュースのために必要とされるアルミニウムの需要を満たすべく電力開発とアルミ精錬業をセットにしたアサハン・プロジェクトが、日本のODAの援助を受けて行われた。 といったように、衝撃的な内容になっている。本書は100%ODAに対する批判本だが、現地調査に基づく内容には説得力があり、日本のODAが途上国より日本の利益優先で行われているといったような問題があることは確かなようだ。 もっと多くの人が、ODAが自分達の今の豊かな生活を支えていることを知って、ODAに関心を持つようになり、ODAが日本のためだけでなく途上国のためになっているかを審査したり、どこの国にどんな援助をするのか決める会議に国民が参加できる制度が必要だと思う。そうしなければ、発展途上国の向上は永遠に不可能だろう。そして当然、均衡状態の世界を実現することも。




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Center for the Studies of Higher Education, Nagoya University